また家庭菜園の話になるが、夏には胡瓜、茄子、トマト、ピーマン、オクラと夏野菜を楽しむ。現役の住職、そして週2回の大学への出講、各種文学講座と多忙ななかでの家庭菜園は、充分な時間が取れない。したがってひとつの野菜を特化して育て、あとの野菜はほどほどに収穫できればと考えている。今年は、ミニトマトに特別の愛情をかけての栽培となった。お陰さまで、酸味と甘みのバランスが取れたミニトマトができ、毎日がミニトマトである。お弁当の「あしらい」として、こんな便利なものはない。
ところがこのミニトマト、なかなかくせものである。あめ玉、ミートボール、コンニャク玉とともに、喉に詰まらせる事故が絶えないのである。この夏休みにも学校の行事でソーセージを喉に詰まらせ、不幸な事故が起きている。ある幼稚園では、ミニトマトは半分に切って使用するという。デイサービスに行くとき、あめ玉を持っていって皆に配り、スタッフから注意を受けたという。
この夏休みに、小学生高学年の子どもたち50人の合宿に参加した。食事をも遊びにしてしまう子どもたちの様子は、賑やかでもある。ミニトマトが転がって、大騒ぎである。行儀作法を云々するよりも、度が過ぎない限り普段とは異なった環境を大切にしてあげたいと思う。
賑やかな朝食も、子どもたち一人ひとり様子を観察して、体調を崩している子がいないか見るのである。今日一日の活動にとって、大切なことといえよう。
ふと見ると、子どもたちの箸の持ち方がおかしい。いわゆる正しい箸の持ち方をしている子どもは10人といないのである。箸を握るようにしてもっている子どもが多く、これではミニトマトが転がるはずである。
現在の学校での給食は、おおかた箸を利用しているようであるが、こうなると箸で食事をすることが正しいのかと思えてくる。大多数がうまく使えないのであれば、箸の文化は放棄して、ナイフとホークにスプーンすべきではないだろうか。
昔、流行った先割れスプーンはどうであろうか。じつに評判の悪かったスプーンである。子どもたちが、箸が使えなくなるという理由で廃止されたが、正しく箸を使える子どもは、ますます少なくなっているではないか。
話は変わるが、「ら」抜き言葉が容認されつつある。話し言葉としては、「食べられる」が「食べれる」、「見られる」が「見れる」と、「ら」抜き言葉が使われ、テレビでも一部のアナウンサーが使用している。言葉は生きものであるから、大多数が使うようになると、比較的容認されるようである。
しかし、箸はちがう!いわゆる正しい箸の持ち方というのは、「いかに正確につかんで早く食べられるか」という経験則のなかから生まれてきたものである。よって、にぎり箸が多いからといって、にぎり箸が、正しい箸の持ち方になることはないのである。
息子が中学1年のとき、クラスでパソコンのタイピング競争がおこなわれ、左右の人差し指だけでタイピングした子が優勝してしまった。先生の指導は、今優勝したことは褒めたが、キーボードを見ないで入力するタッチタイピングでは、一本指打法はできないと。
また鉛筆の持ち方も、「いかに正確に早く書けるか」の経験則から生まれた持ち方が正しいのです。
では、なぜ箸や鉛筆が正しく使えないのでしょうか。それは親が正しい持ち方ができないから、おのずから我が子に注意することもできないのです。核家族になり、そうしたことを伝えてくれる祖父母は傍にいないからです。
さる会社の総合案内所で、握りペンでメモを取る姿に、その会社を象徴しているようにも思いました。
天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久
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