政治的な事柄には触れないようにしてきたし、私個人の政治的思考は持ち込みたくない。しかし、今回のなんとも言葉にし難いアメリカ大統領選挙を、政治的な目でなく哲学や人間論的に見てみたいと思う。
家にはテレビがないため、8日火曜日の夜、投票のカウントが始まって夜中の3時ごろに勝敗が決まるまで、友人宅のテレビの前に張り付いて、決まってからしばらく呆然とし、次の日はずっと涙が止まらなかった。自国の選挙にすらこんなに感情が揺さぶられたりしないのに、どうしてわたしはこんなに影響を受けているのだろう?とすごく考えさせられた。次の日の学校の帰り、同じクラスの女性達と共にプロテストに参加した。今まで、私はプロテストに対してあまり好感を持ってはいなかった(大抵は「愛」や「善」を育むものでなく攻撃性の高い場合が多いのと、状況の変化を起こすのにはプロテストよりもっと有効に時間とエネルギーを使う方法があると思っていたから)のだが、行ってみて、 何千人と共に掛け声を出しながら歩むことがどんなにもパワフルなのかを体感した。結果、感じた事を今回書いてみたい。
弁論術というものがある。古代ギリシャの哲学者、アリストテレスが教えたものであり、思いっきり要約すると、人の心を動かすにはロゴス(論理)、エソス(信頼・人柄)そしてパソス(感情・共感)を要するという説だ。いい演説や説得は、せめて2つもの項目を得ていないといけない、と公的パフォーマンスを重要視する欧米社会では教えられている。
しかし、私はその3つが同じように影響を及ぼしているとはどうしても考えられない。今回の選挙の結果も、一方がどれだけ政界で成果を上げてきて論理に訴えたところで、もう一方はロゴスにはほぼ全く見向きもせず、「忘れ去られ、時代に置いてきぼりを食らっている」と感じていた人たちのパソスに大きく触れた結果勝利したと思う。そして、論理的に考え、誰が大統領になろうと米国の政界構造的に全てがひっくり返りえないようになっているのはわかっていても、たった4年だとわかっていても、もう片方が素晴らしく誰にも慕われるような候補者でなかったにしても、私のパソスとエソスはどうしても反発する。
私が人生をかけて戦っている全てを否定するような言動を行う人が勝った、ということが、まるで私個人への攻撃かのように感情を揺さぶるのだ 。「こんな下らない言い分に揺さぶられてはならない」「無知に対して怒っては負けだ」と私のロゴスがどれだけ言い聞かせても、目の前で繰り広げられる言動に、攻撃に、私は傷つき、そして怒った。
そしてプロテストに行ってみて気づいたこと。参加者はみな、もちろんなにか現状に満足しておらず、変化を求める人が集まるのだが、みんな無意識的にでもかけ声を出すことや30ブロック歩いたところで選挙結果が変わるとは思っていないだろう。ここにある価値は齎す変化ではなく、様々な感情の表現、連帯感、そして結果的に芽生える肯定感なのではないかと思う。
プロテストに及ぶまでに人は何をどれだけ否定され続けてから行動に移すのか。感情は常に論理に基づいて生まれるものではない。頭では感情的にならない方が得だ、正しい、とわかっていても、そして感情に踊らされるような行動を起こさなかったとしても、感情自体を無視し続けるのは決して健康とは言えない。特に傷ついている事や怒っていることなどは、全体的な健康、連体制、社会性などに必ず影響を及ばしてくる。私は怒りや悲しみを抱えている人間に対して「大丈夫だよ。」や「そのうち良くなる」などという言葉を今まで何回かけただろうかと不安になった。変化や結果でないのだ。今悲しい。今傷ついている。今怒っているという事を、もし自分も含めた誰も肯定してあげなければ、どこか見えないところに沈んで溜まっていくしかなくなる。だからこそ、プロテストでなくても、「今そうなんだね、苦しいんだね」とただただ肯定される機会が必要なのではないだろうか。
子供には当たり前に与える「感情」や「心」に対する肯定を、私たちはお互いだけではなく、自分にすらしなくなってしまっているのではないだろうか。もちろん、感じる想いや苦しみに対していちいち行動を起こす必要はない。周りに変化を毎回求める必要もない。実際に、嬉しいことも悲しいことも、全ては過ぎ去るものだという事は痛いほどに知っているから。だけれど、傷ついている人に対して(相手が自分でも)、ただ共感し、ただ「そうである」場所を提供することの大切さに今回は気付かされた。常に合理的で論理的である必要はないのだ。
私は政治家でも演説家でもないから、ロゴス・エソス・パトスを完全に理解する必要はないのだけれど、今のアメリカのようにこんなに社会的溝が深まった場所で、私はどれだけ人の論理だけでなく、エソスとパトスを認めることができるだろう。自分の論理の下の、人間的なパトスを肯定してあげられるだろうか。
きょうこ
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