やっとやっと春が来た!寒さに負けて、友人のガレージにずっとしまっていたバイクを出してきて、先週あたりから通学にもバイクに乗っている。ハドソン川の横をずっと通っていくのだけれど、風を体で感じて、景色が過ぎ去っていくのをさらけ出された状態で経験していると、毎日ちょっとリセットされる感覚だ。バイクや、スノボや、スカイダイビング、そしてなによりサーフィンなど、「ちっぽけな私と世界」をギュンギュン感じられるアクティビティに首ったけだ。
約2年前の投稿で、バイクでツーリング旅行をしているという話は出たが、ツーリング自体の話は全然していなかったなと思い、今回はその話をしようと思う。
スタート地点はテキサス州で、宿泊のほとんどはテント、5月末だったのに外が5度以下だったり3日以上お風呂に入ってなかった場合は安いモーテルに泊まりながら、最後はユタ州から飛行機で私だけ先に帰るという二人旅。アメリカのバイカーというと、ハーレーに乗っている髭もじゃの強面レザーおじさんのイメージが強いし、実際にそういう人が多い。その中にヒョロヒョロのベルギー人でキャンプなんかしたことない、というバイク愛好家の180cmの友人と、お風呂ってなんだか過大評価されすぎじゃない?と思うキャンプ大好きだが、ヘンテコなアジア人の私の二人組はどこに行ってもとにかく目立った。しかし、大抵のバイカーたちは、反対車線で通り過ぎる際お互いに親指立てて「ぐー」サインを出すのだが、強面のおっちゃんたちにグーしてもらったり、6時間運転してぐったりしながらハイウェイの近くのカフェなどでぐったりしていると、「いいバイク乗ってるな」と怖いおっちゃんたちが話しかけてきてくれるのとかは、素直に嬉しかった。
しかし、怖い経験ももちろんある。悪天候(コロラドは5月のくせに雪や雹が降っていた!)もあり、予定していた街より近いキャンプ場に泊まろうと思い寄ってみたら、なぜかほぼ裸でライフル持った男の人が立っていて、キャンプ場の入り口からぐるっと出口まですぐさま出て「もう嫌だ」と半泣きしながら、雹の中残りの2時間運転したり、すごく人種差別的なことを言われたり。
でも一番ショックだったのは、もっとシンプルな事だった。旅行が始まり、まだすぐの時の話だ。朝早くから運転していて疲れも溜まってきており、長い瞬きをしたら通りすぎてしまうような小さな街の中心を通っているハイウェイの面した、唯一の「食べ所」的なところに入って休憩することにした。その町は昔は炭鉱で栄えてたのだろうが、今はすっかり寂れている。まるでウェスタン映画のセットみたいな、ギィギィ鳴きながら開く腰までの木の扉を過ぎて入ると、ファミレスにビリヤード台を置いたみたいな設定。ウェイターであろう若い女の子にメニューをもらい、まばらにいる他のお客から痛いほど視線を感じながら、居心地を悪く感じ、すぐ出てくるであろうチキンサラダを頼んだ。
ウェイターの女の子も、バーテンの男の子も話しかけるととてもフレンドリーで、言ってることはいちいちちょっと差別的なのだがとにかく興味津々で、悪気はない。そしてすぐにサラダが出てきた。一口食べて、チキンの余りの…私の知っているチキンの味と違い、ビックリした。古い、悪くなっている肉の味とも違う。そしてニューヨークと比べるせいなのか、肉の量に比べてあまりに安い。まさしくケミカルの味なのだ。胸肉がドカンと乗っているのだが、不自然にプリプリで大きい。きっと成長ホルモンなどのステロイドや、抗生物質などをふんだんに使っている大量生産チキンなのだろう。それにしても、野菜も、肉も、普段私の知っている味とはあまりに違った。ニューヨークのオーガニックなどのものと比べてだけでなく、インドやエクアドルなどの貧困や災害に悩まされている場所ともまた違う、「ケミカルの味」としかなんとも例えようのない味なのだ。
その街に「スーパー」らしきスーパーはない。アメリカの生産主義の象徴のようなマックさえもない。1時間ちょい運転したもう少し大きめの街に、100円ストア的なところと、マックと、ピザ屋があった。病院はもうあと1時間ほど運転した場所にあるそうだ。
私は心底恥ずかしくなった。大抵アメリカと聞いて思い浮かぶのはLA、ニューヨーク、せいぜいベガスかシカゴ。ユタ州やオクラホマ州の端っこなどにある小さい街は、アメリカからでさえも忘れかけられている。体を大事に扱うとか、食生活に気をつけるというのは、本当に恵まれた環境にいるから言える言葉なんだと言うことを、しばらくニューヨークで自分の勉強のことだけ考えた生活をして、まるで食生活や健康に選択肢があるのが当たり前かのような鈍感さに陥っていた。
そしてヘルシーに食べる、というのは別に食料にありつけるかだけではない。昔一度顎の手術をして、口が痛くてほとんど開かなかったことがある。何を食べるのも苦痛で、こんなに大好きな「食べる」という行為がたまらなかった事もあった。また、心が病んでいた時、食べるということ自体に興味がなくなり、飴玉しかなめない、という時期もあった。美味しい、と感じる食べ物を食べるという行為に、本当にどれだけの恵みが積み込まれているか、「今日も食べれて感謝します!」と言いながらも、どれだけ見落としていたことか。
そのチキンサラダは完食したし、この話をしながら再び、食べたいと思える事、食べ物にありつける事、食べれること、美味しいと感じられる事、全てに対しての感謝を少し思いだせた。
きょうこ
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