4月の大本山増上寺はにぎやかである。桜のもとで、法然上人の威徳を顕彰する法要である「御忌会(ぎょきえ)」が、7日間にわたって荘厳におこなわれている。
延べ千人もの僧が、それぞれの持ち場で参加している。各地からの参拝者、多くの外国人観光客たちと、それは華やかでにぎやかである。
わたしも数年前から、すべての仕事に優先して、積極的に参加することにした。葬儀に年忌法要とたくさんのお経を読みお念仏を唱えてきたが、それはみな亡き人の冥福を祈っての追善供養であった。自らの修行として、お念仏を唱えることの少なさに愕然としたのである。
御忌会の期間、特別法要を勤める人、ご詠歌を唱える人、参拝者をお世話する人、そして専らお念仏をお唱えする人と、それぞれの役目をお勤めするのであるが、自分のためにお念仏をお唱えしようとの決意での参加となった。法然上人をお祀りいたす圓光大師堂で、朝9時から夕方4時までの間、ただひたすらお念仏だけを申すのである。
目的ができると、参加する意気込みが違うが、しかし足の痛いのはどうにもならない。必ずしもずっと正座していなければならないわけでもなく、時には足をくずして「あぐら」をかくのであるが、長時間にわたって座っていることがきついのである。
強制されてお念仏をしているのではないから、充分な休憩を取ってもよいのであるが、それでは本来の目的に反してしまう。不要に立つことに抵抗を感じてしまうのである。2時間ほどすると、お手洗いに行きたくなった。このときほど、用足しがうれしく思ったことはない。立ち歩くことの大義名分ができたからである。立ち上がって楽しむかのように1歩1歩あゆむと、全身の痛みが和らいでいく。お念仏を申すことよりも、まず自分を律していくことが最優先であった。
無事7時間を終えるためには、時には足をくずしながらも、ひたすらお念仏を申すことである。必死になることが、早く時間が過ぎていくようである。ゆめゆめ「どのくらい時間がたったか」と、時計を見るのは厳禁である。そうした時は数分しか経過していないのである。
肥満が正座を辛くしていると、お念仏のためにダイエットを決行した。1年かけて12kgの減量に成功した。わたしのなみなみならぬ決意をよそに、激やせに一度病院での検査を進める者まで現れた次第である。
今年は、意気揚々とお念仏を始めた。今までは膝の上に、12kgの重しを乗せていたわけであるから。しかしである。足の痛さは、ほとんど変わらない。正座でも「あぐら」でも、長時間姿勢を保つには、背筋と腹筋が必要なことがわかった。
じつに雑念の多いお念仏である。こうした私を、正面に坐(ましま)す法然上人は、どのようにご覧になっているのであろうか。
でも、継続をお誓いして、下山帰路についた。
天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久
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