2015年の4月に投稿を始めさせていただいてから、もう2年が過ぎた。本当に早いものだ。学校が休みの間の各国での活動や、旅先で感動に震えた時でも、勉強であまりに大変で「もう私には無理だ」と思ってすべて投げ出したくなった時でも、特に変化を感じるでもなくただ時が過ぎていった時でも、毎月一回、「本当に私がわざわざ文字にしたいようなことってなんだろう?」と問いかける機会を与えてもらった2年間だった。
正直、そんな大事なことを、背中を押してもらわないとなかなか考えないようになってしまっていたのが恐ろしかった。日々忙しくて、どんなに頑張ってもうまくいかないことも山ほどあって、やっぱり、どうしても、エゴに陥ってしまう。寂しい。疲れた。なんで結果が出ない。なんでまだ完璧な「デクノボー」になれない。そうやって、なんで、なんでと苦しくなり、なればなるほど人にも自分にも優しくなれない、ナンデモット病にかかることも何度もあった。
不思議なものだ。どうにか沢山役に立ててもらいたいからこそ「もっと」「なんで」が襲うのに、思い詰めるほど誰のためにもなれなくなる。でも自分も、行動も、つまりは世界そのものも「十分だ」と信じれた瞬間、与えられるものが増える。
最後の投稿で何を書こうかと悩んでいた時、昔インドにいた頃に書いたブログを読み返し、今自分に再度言い聞かせなければいけないことだからこそ、少し長くなるが、ぜひシェアさせていただきたい。
その日はいつも通り障害を持つ子供たちの施設に仕事に出かけた。お昼の時間になり、障害の重度により、食べものの調理の仕方が違うのだが、私はミキサーにかけてスープみたいになったお皿を渡され、プルヴァティと言う名の重度の脳性麻痺を持つ女の子の担当になった。
プルヴァティは口がしぼめた状態で固まってしまっているため、とても食べさせにくい。前回は、あまりに私がこぼしたり口を開けてもらえなかったり苦戦していたため、ベテランのインド人のお世話役の方が変わってくれた。しかしもう3週間以上もいるのにやりやすい子だけ選んでやっているのではダメだと思い、長期戦でも絶対やり遂げたいと思い、プラスチックのいすを引っ張って来て、隣に腰を下ろした。
「プルヴァティ、一緒にがんばって。私もなるべくあなたが食べやすい様にがんばるから、あなたもがんばって食べて。」と伝えて、食べさせ始めた。
口を開けさせるのに一苦労で、開けてもらったスキにスープを口に運ぶも、一回口に入れても、再度しぼめた瞬間にほとんどがこぼれ出て来てしまう。10分ほど格闘した末、小さいスプーンの方が奥まで入れられるかとも思い、スプーンを変えて再度トライ。よしよし、確かにもっと奥まで入る。
こぼれたものをさっと拭かないと、垂れてよだれかけがベタベタになる。口の周りのものも乾いて、きっと痒いだろう。「お願い、もっと大きく口を開けて」。ミキサーにかけても、野菜などの細かい欠片は残る。「いっぱい食べないと元気でないよ!」と声をかけ続ける。しかし、細かくても野菜が入るほどの口を開けてくれない。30分ほどたつと、はー、と大きなため息をついてしまった。そこではっと想う。なぜ私はため息なんかついているのだろう。なんでイライラしてるのだろうか?
彼女の気持ちはわからないけれど、もしかしたら彼女は口を開けたいんじゃないだろうか?もし、彼女も口を開けたいのに、彼女の障害がそれをさせていないとしたら、ため息をあげるなんてそんな理不尽な行動はあるだろうか?
例えば「開けたい」「開けたくない」まで解っていないとしても、例えば反抗心で口をあけていないと仮定したとしても、なぜわたしが彼女に野菜を食べて欲しいのか?
栄養をつけてほしいから。
なんで栄養をつけてほしい?
良くなってほしいから。
なんで良くなってほしい?
なんで私はボランティアなんかに来てる?
色々な愛の与え方や、自分のリミット、私に合った与え方の形を探しに。
だったら私は、彼女とここにいるだけで嬉しいはず。
イライラすることなんてなにもないはず。
これを作業にしてはいけない。これを「仕事」や「作業」にした瞬間、私はここに居る意味を失ってしまう。「今」「ここに」「わたし」が「在る」ことに感謝をして、彼女と時間を過ごせていることに感謝をして、なぜ自分がここに居るかを忘れてはいけない。それはきっと何をしていても、忘れちゃいけないこと。
友人や家族と居るとき、仕事をしているとき、そして今の私の様に勉強を必死でしているとき、常に自分の心がそこにあってほしい。動作だけ、言葉だけで過ごしていく人生なんて誰も嫌だろう。そして私は「いま」「ここに」心から在ることを「誠実」の一部と考える。私は誠実に生きたいよ。
プルヴァティに説明してみた。
「私があなたにコレを全部食べてもらいたいのは、指示を受けたからでも、ただボランティア体験したいからでもなく、野菜には栄養がいっぱい入っていて、栄養があなたの身体にいいってことを知っているから、食べてもらいたいんだ。なんで身体にいいことをさせたいかと言うと、あなたが愛らしくて、大好きで、大切だから。今のあなたがいけない訳じゃあない。今のあなたのままで、大好き。だけれど、おっきくなったら、病気が良くなったら、もしかしたらもっと楽しみが増えるかもしれない。自由を感じれるかもしれない。だから良くなってほしい。あなたを愛してる、だから、これを食べてほしい。」そう説明しながら食べさせてみた。
彼女の方に特に変化はなかったけれど、私の気持ちに大きな変化があった。食べてくれてありがとう。一緒にがんばってくれてありがとう。余裕が出た。感謝が出た。
何か物事がうまくいかないとき、例えば近しい友人等とケンカするときって、私はそれは根本を忘れてしまっているときだと想う。なんで傷ついたか。なんで怒ってるのか。「あんたが分からず屋だから」「口出さないで」。「私が思う通りになればきっともっとうまく物事が進むのに」。それらはそれぞれ「あなたが大好きだから、私の言いたいことを解ってもらえてない気がして悲しい。」「ちゃんと考えて行動しているつもりなのに、信じてもらえない様な気になっての寂しい」「私が世界の足しになれればいいのに」が根本であろう。しかし言い方が違うと相手の理解も違うし、自分の気持ちも違う。その二つの会話の中で何が一番違うかというと、どれだけ愛と感謝を表現できているかではないだろうか。
なにを前にしても、根本を忘れたくない。
寂しい、悲しい、悔しいもちゃんと感じて、伝えられたら良いな。
そして、それを伝えるときに、ちゃんと愛も伝えられるといいな。
そしたら結果がどうであれ、きっと幸せだろう。
プルヴァティは50分で、一皿全部食べてくれた。すごくうれしかった。
これがただの「作業」であったら、口が開く子は5分で終わることが10倍かかったことにイライラしてただろう。けど私は全部食べてもらえたことが、一緒にがんばれたことがすごく嬉しかった。動かない彼女の手を無理矢理開いてハイファイブをした。
未熟で、イライラして、ため息しちゃうことも多い私ですが、こうやって毎月振り返る機会をいただけて、どんなに忙しくても根本をなんとか忘れずに来ることができました。
私も、世界も十分で、ただただここにいられることへの感謝溢れる生き方ができたら、私はきっと人の役に立てる。足りないことではなく、溢れているものに目をやると、与えるものが増えることを忘れず生きたいです。
この2年間、本当にありがとうございました。
きょうこ
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