法然上人のお念仏は、南都北嶺の逆鱗をかった。そして延暦寺興福寺の衆徒は、朝廷に対して、専修念仏の停止を訴えたのである。
元久2年(1205)緊迫した情勢下におかれた上人は、7月に
入って兼実の別邸小松殿に移って庇護されることになりまし
た。8月になると衆徒の代表は早急に宣旨をくだすべきことを
要請しました。
そうしたなかにあって上人は、11月に内大臣西園寺(大
宮)実宗の戒師をつとめられましたが、翌12月、門下の住蓮
と安楽房遵西の2名が、六時礼讃の哀調に感銘した院の女房と
密通したという(捏造)事件がもちあがったので、上人はそ
の責任を免れることができませんでした。兼実は免罪運動を
行いましたが、功を奏せず、ついに翌建永2年(1207)2月18
日、上人の四国配流が決定し、安楽房遵西は六条河原で、
住蓮は近江の馬淵で処刑されることに決まりました。
配流の決定した上人は 還俗(げんぞく)せしめられて
藤井元彦という俗名が与えられました。同門の道俗たちのな
げきはふかく、老齢の上人に対する気づかいはひとしおで
ありました。ときに門弟が上人に、「一向専修念仏を停止する
旨奏上し、内々に念仏教化なされては」と申し上げたところ、
上人は悠々せまらず、「私は流刑を少しも恨んではいない。
流罪によって念仏を辺鄙な地方に化導できることは、またと
ない結構なことである。これはまさに朝廷のご恩とうけとる
べきではないか」とさとされました。この上人のことばに柔軟
な態度とたぎるような使命感を感じることができます。
(浄土宗HPより)
四国に向かう法然上人は、その道すがらお念仏の教化に励まれました。
播磨の高砂の浦(兵庫県高砂市高砂町)につくと、老女夫婦が法然上人を訪ねて懇願します。
「私たちは漁(すなどり)を生業(なりわい)にしており、
朝に夕べに殺生をおこなっております。ものの命を殺す者は、
地獄に落ちて苦しみ絶えがたいといわれます。いかがしてこれ
をまぬがれることができましょうか。助けて下さいませ。」
上人は、
「たとえ殺生を生業としていても、南無阿彌陀佛と唱えれば、
佛の悲願に乗じて浄土に往生できます」
と、哀れみ導きました。二人ともに涙にむせび喜び、上人の仰せをうけたまわってからは、昼は浦にて漁をするとも、夜はお念仏に励まれたのです。そして臨終正念にして、往生を遂げたとあります。
前号で、家庭菜園では毎朝野菜につく虫を捕り、殺生なくして菜園は成り立たない話をしました。ひとつの野菜が立派に育つのには、数多くの虫たちの命をいただいていることを思うに、心のこもった「いただきます」が大切であると書かせていただきました。
法然上人の御心を体しますならば、生きとし生けるもの感謝を忘れてはならないことを再確認させていただきました。
【南都北嶺】なんと‐ほくれい
奈良と比叡山。また、南都六宗を代表する奈良の興福寺と比叡山の延暦寺。(JapanKnowledge)
天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久
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