「 万国太平之祥瑞、珍重々々」
宗祇法師が東常縁から願成寺でさずかった「古今伝授」は、三条西実隆に伝授されました。その実隆の日記『実隆公記』より、永正2年(1522)実隆51歳の賀詞を拝借いたしました。
実隆は行水の後、神仏を拝し、念誦、般若心経書写、書き初め、詩和歌の詠吟等、忙しい元旦でした。
このころは、応仁の乱が終わったとはいえ、群雄割拠のする時代は変わりなく、度重なる火災や都の大臣家などが襲われるなど、不穏な都であった。実隆は、家族や貴重なる典籍を鞍馬などに疎開する時もあった。
つかの間の静かさは、都人にとっては何よりのお正月であったと思われる。「万国」が「太平」であることは、何よりの喜びであり「珍重」されたのである。
今年も穏やかなお正月を迎えられて、大切にしていきたい。
本年も「願成寺メールマガジン」をよろしくお願い申しあげます。
【東常縁】とう‐つねより
室町中期の武将、歌人。美濃国(岐阜県)郡上の領主。本姓平。別称東野州。出家して法号素伝。二条派の流れをくみ、堯孝の門人。宗祇に「古今和歌集」解釈の秘説を伝授。これより「古今伝授」が始まったという。著作に「東野州聞書」「新古今和歌集聞書」などがある。応永8〜文明16年頃(1410〜4頃)JKナレッジより
【古今伝授】こきん‐でんじゅ
「古今集」の難解な歌や語句についての解説を秘伝として、師から弟子へ、また親から子へ伝え授けること。すでに平安末期から鎌倉時代にかけて六条家や御子左家(二条家)などで訓釈についての異説がそれぞれ伝えられていたが、室町時代にはいって形式的にも整えられて本格化し、頓阿、東常縁(とうのつねより)、宗祇、三条西実隆、細川幽斎などと二条家の説をついだ二条家伝授が権威を持って伝えられていった。このほかにも宗祇から肖柏に伝えられた堺伝授、肖柏から林宗二に伝えられた奈良伝授、幽斎から智仁親王に伝えられた御所伝授などが有名。のち、しだいに瑣末化、形骸化し、三木三鳥などのように無内容なものを秘事として切紙という小紙片に記して伝えられるようになり、江戸時代にはいってからは、あまり顧みられなくなった。後には一般に秘伝、極意の伝授や、大げさで内容に乏しい教えのたとえにも用いられた。古今集灌頂。
【応仁の乱】おうにんのらん
応仁・文明の乱
1467年(応仁1)〜1477年(文明9)の11年間にわたり、細川勝元(ほそかわかつもと)と山名持豊(やまなもちとよ)(山名宗全(そうぜん))とをそれぞれの大将として、諸国の大・小名が東西両軍に分属し、京都を主戦場として戦った大乱。応仁・文明(ぶんめい)の乱ともいう。
【群雄割拠】ぐんゆう‐かっきょ
数多くの英雄が各地にたてこもり、それぞれ勢力をふるって対立すること。
天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久
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