「名(な)は体(たい)を表(あらわ)す」という言葉がある。辞書を引くと、次のようにある。
名前はその物や人の性質や実体をよく表すものだということ。
すると、すべての人の名は、それぞれの思い入れがあるということになる。当然のことで、親は我が子に思い入れを持って名前を付けているのである。
私、住職の名前は、「魚尾孝久(うおおゆきひさ)」という。「孝」という字があるから、親孝行をする子にとの思いで付けられたかのように思うが、そうではない。
中学1年の時、父親が古典を教えるといって、『方丈記』の文庫本(岩波文庫)を与えられ、教えを受けた。この本を校訂されたのが、山田孝雄(やまだよしお)である。彼の「孝」の字をとっての銘々であると聞いた。父は万葉集を愛し、我が子の名前の1字を、国語学者の名前を頂戴して付けたという。父なりの思い入れを感ずる。いささか負担にも思うが、今大学で『源氏物語』の講義をしていることを思うと、父の気持ちに忖度(そんたく)できたようにも思う。
私だけが特別でなく、すべての人がご両親ご家族の思い入れに、願いを込められての銘々であったのである。
ただ名付けは、時代を反映している。
先日「亀」という字のついた、100才になろうという方のご法事をおこなった。特に明治から大正時代の方のお名前に、「亀」「鶴」「虎」「熊」「龍」など動物の名をとった名前が、男女ともに多く見られる。
現代では多少の違和感があるが、当時の現実を考えると納得をするものがある。明治から大正期の過去帳を見ると、1年の亡くなられた人の半数近くが、3才に満たない子供たちである。医学と衛生の乏しい時代にあって、生まれた子供たちは、常に死と向かい合わせであった。時とすると、我が子が無事に育って2〜3才になってから出生届を出す親もいて、昔は実年齢は2つ多いんですよということになる。
したがって、我が子の名前も必然的に長生きをする動物、強い動物の名前となる。女性のお檀家さんで、「くま」という名前の方がいたが、親の丈夫に育ってほしいという願いが込められた名前だったのである。
そうした思いを込めて、自ら名付けるのではなく神社や寺院にお願いするようになる。戦後まもなくまでは、また生まれた子どもから見ると、お祖父さん、大おじいさんに名付けてもらうことも多かった。
皇室で「○○子」という名前が付けられると、一斉に女性の名に「子」が付けられるようになる。いわゆる「まつ」「たけ」「うめ」が、「松子」「竹子」「梅子」となるわけである。最近は少なくなったが、日常的には勝手に「子」を付けて「うめ子」として使用していたが、戸籍では「うめ」である。戒名を付ける段階で、親族から告げられるのである。
現代では「子」が付く女の子は、極端に少なくなっている。
昨年度名前ランキング女子1位は「結菜」である(明治安田生命の生まれ年別の名前調査による)。読み方は、「ゆな」「ゆいな」「ゆうな」である。
はなはだ失礼ではあるが、どんな結球野菜(キャベツ、ハクサイ、レタス類)かと思ってしまう。辞書をひくと「湯女」ヒットしてしまう。この原稿を書いたために、私のパソコンの「ゆな」漢字変換順位は、「湯女」から「結菜」に変わってしまった。
現代の名前の付け方は、まず呼び名がきまり、それに合った文字や好きな文字が当てられているようにも思われる。まず「ゆ」「ゆう」にあたる漢字として「由」「優」「結」「柚」が考えられ、次に「な」にあたる「奈」「那」「菜」との組み合わせで決まるようである。
昔はよい漢字、たとえば「幸」が決まり、読み方として「さちこ」「ゆきこ」「たかこ」「こうこ」が選択された。大正14年「幸子」は、晴れてランキング1位を獲得するが、翌年昭和になると「和子」に首位を奪われ、2位に甘んじることとなる。
名前の変遷、興味深いものがある。
【蛇足】 父の『方丈記』講義は、3回で終わってしまった。まさしく三日坊主である。長じて、そのことを訪ねると、「3回やれば、その道筋はできた。後はおまえの資質である」といわれた。その考えは踏襲している。
【校訂】こう‐てい
書物の文字、語句などの誤りをなおすこと。特に、古書の本文をいろいろの伝本と比べ合わせて誤りを訂正すること。校。
【山田孝雄】やまだ‐よしお
国文学者、国語学者。富山県出身。国語調査委員会補助委員、日本大学高等師範部勤務、東北帝国大学教授を経て、昭和一五年(一九四〇)から同二〇年まで神宮皇学館大学学長。国語・国文学、特に文法研究の分野での功績が大きい。同三二年文化勲章受章。著「日本文法論」「奈良朝文法史」「平安朝文法史」「国語学史」など。明治六〜昭和三三年(一八七三〜一九五八)
天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久
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