大学で作文の指導をしているというと、この程度のメルマガで大丈夫かと言われてしまうかもしれない。
学生たちは、どうも「話し言葉」と「書き言葉」の区別が自覚されていないようである。まさしく日常会話に使われる言葉が「話し言葉」であり、手紙やレポート、報告書などに使われる言葉が「書き言葉」である。
「そんな事は」→「そのような事は」
「いい方法」→「よい方法」
また、最近容認されがちな「ら抜き言葉」や「い抜き言葉」も、文章では認められない。平気で「話し言葉」が使われる。「話し言葉」は、親しい人との間での使用と考えるとよいであろう。公式の場、目上の人など、やはり避けるべきである。
文章を作る場合、大方字数の制限があることが多い。決まった字数のなかで、自分の考えを、いかに伝えるかが問題である。ところが学生たちの文章を見ると、「私は〜と思う」という文が、いくつも出てくる。400字の文章に、3回も4回も使われているのである。文章は、私が思ったことを書いているのであるから、何度も繰り返すことはなく、強調したい時に一度だけ使用すれば効果的であろう。
減った字数分、本来書くべき内容を充実することができよう。「私は〜と思う」の多用は、文章が稚拙に見えてしまうのである。また「思う」は、時として自分の主張に自信の無さを露呈することにも注意しよう。蛇足や無駄な言葉と大切な言葉との、選別することを心掛けるのが寛容である。
不要な言葉の使用例は、司会者に多いように思う。
葬儀の折、「読経中ですが、お焼香をお願いします」とのアナウンスがあるが、一般的に読経中に焼香するのであるから、「読経中」のアナウンスは不要である。司会者が伝えるべきことは、これから焼香であること、その方法である。「これよりお焼香でございます。係りがご案内申しあげます。」で、どうであろうか。
また結婚披露宴で、司会者が「ご両親は、どんなにかお喜びのことと」というアナウンスがある。親にとっては喜びであるが、司会者に本人や親の気持ちを勝手に決めつけられるのは、必ずしも由としない。
司会者は、最小限の言葉で、儀式や会合をスムーズに進行させるのが仕事であり、間違っても司会者の存在感などがあってはならない。
【ら抜き言葉】らぬき‐ことば
動詞に可能の助動詞「られる」がついた「食べられる」「出られる」「見られる」などから「ら」を抜いた、「食べれる」「出れる」「見れる」などの言い方の称。文法的には破格。ら抜き表現。
デジタル大辞泉, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com/ , (参照 2018-05-30)
【い抜き言葉】
「食べている」→「食べてる」
「テレビを見ているとき」→「テレビをみてるとき」
天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久
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