印象的な話であるが、京都は殺人事件がもっとも多い所である。テレビドラマを見ていると、殺人事件がおこるその舞台が、京都に設定されているからである。ドラマの世界ではあるが、京都府警の多忙さが思いやられる。
きっと、歴史的景観や文化的背景が豊富で、いろいろなスチエーションを設定できるからであろう。京都駅の新聞売り場で「『京都日報』をください」といった人がいるという、笑い話がある。ドラマが、現実世界に入ってしまった結果である。
大河ドラマでは、刀で切り殺すというシーンがしばしば登場する。時には切腹するという、自死の場面もある。ドラマとはいえ、実に血生臭い内容ばかりである。
また、バラエティー番組が多いことである。落語家やお笑い芸人と称する人たちが、司会や回答者となって笑いを見せるが、実に品格がない番組が多い。わざと外す回答に何らかの脈絡がなく、ただただ不快を感じるのは私だけであろうか。
落語家などが司会をするのは、まだ落語だけでは食べていかれず、アルバイトととしておこなっていたと聞く。
ニュース番組も、大きな様がわりをしている。ニュースとは、本来は事象や事件をいかに正しく伝えるかが問われていた。
いつからか、アナウンサーが事件に対して感想述べるようになり、コメンテーターという人が登場してきて、自分の意見を述べるようになった。
またニュースは、MCと称する司会者が登場してきて、自分の感情をあらわにして、コメンテーターとともに、事件を弄(いじ)る。ニュースがショー化されているのである。
今まさしく、100回を迎えた甲子園での高校野球が、連日人々をテレビに釘付けにさせている。我が静岡代表の常葉大菊川高校も、躍進を続けている。常葉大菊川が関西入りして初練習をした報道で、「常葉大菊川が現地で汗を流した」と。確かにこの暑さの中での練習であるから汗をかいたに違いないが、報道としては「現地での初練習をおこなった」とあるべきである。
こうした現状は、我々に責任があるように思う。テレビ局は、その番組の視聴率に左右されるのであるから、我々が求めてきた結果と見るべきであろう。
朝起きてテレビのスイッチを入れ、寝る時に消す。寝ながら見て消し忘れると、昔であれば放送が終了すると、「ザーザー」音がしてあわてて消したのであるが、今は定点カメラの映像が流れており、毎日が24時間テレビになりかねない。
テレビを垂れ流しにするのではなく、主体的に番組をえらぼう。そして時にはテレビを切る勇気を持とうではないか。
私の提案である。
【京都迷宮案内、京都日報】
1999年1月14日、『京都迷宮案内』としてスタート。このタイトルでは、通算5シリーズが放送された。
初期の頃は特に京都駅ビル、嵐山、野宮神社の近くにある竹林の道、嵯峨野、鞍馬、貴船、鴨川、祇園、八坂神社、平安神宮、大覚寺、南禅寺、伏見稲荷大社、清水寺周辺の二寧坂(二年坂)、産寧坂(三年坂)など京都市内にある観光名所以外にも、一条戻り橋や六道珍皇寺、印接寺(千本閻魔堂)、化野念仏寺、下河原通の近くにある石塀小道など観光バスのルートではあまり行かないような名所でもロケを行って、撮影所内のセット撮影では表現する事が難しい古都「京都」を表現しており、杉浦や大洞の下宿先でもある「田舎亭」も外観は京都市内に実在する建物を使っている。
2003年10月30日からスタートした第6シリーズから、タイトルが現在の『新・京都迷宮案内』と改まり、物語の舞台を架空の新聞社「京都日報」の京都府警記者クラブから、本社社会部へ移した。だが“京都で生活している人たちの「心の迷宮」を、主人公の新聞記者・杉浦恭介が人と違った視点で解き明かしていく”という番組のテーマは、リニューアル前から変わっていない。
【MC】
主として放送や音楽といった分野では、英語でMC(エムシー、master of ceremonies (セレモニーのマスター)の略)という言葉が用いられるようになった。番組の進行役として話すこと、あるいはその人を指す。コンサートなどで、演奏者が曲の繋ぎに話をすることあるいはその時間もMCと呼ぶが、これは「マイク・コメント」という和製英語の略称で司会のことではない。
天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久
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