孫が三歳になり、七五三さんを祝った。寺の子であり、三島の子であるので、浄土宗の大本山である増上寺さんと三嶋大社さんに参拝をさせていただいた。
子供のお祝いについて源氏物語のなかからみると、さすがに七五三はないが、いろいろなお祝いがおこなわれている。まず生まれると「誕生の祝い」がおこなわれる。そして三日目には「三日祝い(みかのいわい)」、5日目に「五日の祝い」、は七日目には「お七夜(おしちや)」と、三五七でお祝いがおこなわれている。近代医学のない当時は、誕生して一日一日生きていることが祝いに繋がっていったのであろう。
ところで、七五三は、これまでの成長を仏さまや神さまに感謝申しあげ、さらなる成育を祈るものである。
お寺も神社も、その儀式の内容は、ほぼ同じであった。いずれも最後に告諭(こくゆ)といって、すこやかな成育のために、説き聞かせるのである。
神官は最後に「いい子で、明るく元気に頑張りましょう」と告げた。お坊さんは「いい子で、明るく元気に頑張れますか?」と訪ねてきた。孫から「はい」の返事がない。お坊さんは、今一度訪ねたが、やはり返事がない。皆で笑って式が終えたのである。
後日、母親が子どもに「なぜ、「はい」と返事ができなかったの?」と尋ねたそうである。1歳から保育園に通っているので、お返事をすることは教わっており、できるはずであると思われたからである。
孫の返事は、「ときどき、お友達とけんかをしてしまうから、いい子ではないの」といったそうである。
天候にも恵まれ、神社やお寺の皆さんに、そしてお檀家の皆さんに祝福され、「はい」の返事はなかったが、泣いて愚図ることもなく素敵な七五三さんであった。
当日、私が財布を忘れ、皆さんにお借りしたことが残念であった。
【七五三】
小児の年祝い。江戸時代以来、男児は三歳と五歳、女児は三歳と七歳とを主とし、十一月十五日に晴着をまとって所の氏神社に詣り、無事成育を祈願した習俗。そのため七五三の名ができた。十一月は古来の祭り月、十五日は重い式日である。元来男女とも三歳で髪置、男五歳は袴着、女七歳は帯解といって、それぞれ吉日を選んで祝ったことは、公家衆の日記など中世の文献にもしばしばみえた。髪置は生後たびたび頭髪を剃ったが、この時以来蓄髪した。袴着ははじめて袴を穿ち、上下を着初めた。また帯解ではそれまで衣服に付紐を用いたが、ここに至って紐を放って縫い帯を着用した。いずれにもしかるべき仮親を頼んで祝儀の作法に従い、年祝いとした。年廻りは数え年で、みな奇数つまり陽の数を重んじて祝意をこめた。もっとも七五三歳とそろえて同時に祝ったのは、主に江戸方の新儀に出て、従来の別個に取り行なった場合に比べるとすこぶる華美の風俗をなしたようである。社参ののち祝宴も催された。上方ではむしろ長く十三歳の子女が虚空蔵菩薩の寺へ詣って、智慧福徳を授かる習俗が一般に聞こえていて、髪置・袴着・帯解を合わせた行事よりも盛んであった。十三詣も小児生長期の年祝いであった。もっとも近年は七五三の祝儀が全国的に広がって流俗となっている。もとより地方にはそれぞれに古来慣行の小児年祝いがあったことはいうまでもない。
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天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久
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