新年明けましておめでとうございます
元旦の一日と、大晦日の一日と、そう対して変わるわけではないのですが、新年という区切りを付けられたことは、大層素晴らしいことと思います。
昨年よかった人は今年もと思い、芳しくなかったことはリセットしての出発。お正月を大切にしたいですね。
ところで、お正月も私が子どもの頃と、大きく変わってしまったように思います。60年も昔のことですから仕方ありませんが。
その頃は、12月になると家族総出で沢庵漬けが始まる。我が家では四斗樽ふたつ、ひとつの樽は塩を効かせて、夏まで食べられるようにする。ろくに副菜(おかず)のない時代であったので、大切な仕事であった。
時を同じくして、お檀家さんたちによる薪割りがある。材料となる大きな木を運ぶ人、木を切る人、それを割る人と、それはにぎやかである。
6坪ほどの物置に、半分ほど積みあげられる。その隣に4斗樽が鎮座しているのである。
また暮れの日曜日になると、各家で大掃除が始まる。女性は手ぬぐいを姉さんかぶりして白い割烹着姿、男たちは手ぬぐいをマスク代わりにして、畳を外に運び棒で叩いてホコリを落とす。子どもは畳の下に敷いてあった新聞を取り替えるのである。あちらこちらの家から畳を叩く音が聞こえてくると、お正月がすぐそこまで来ていることを感じる。
大晦日まぎわになると、お金を渡され床屋に行かされる。どこの床屋も子どもたちで混んでおり、長い時間待たされた記憶は現在でも鮮明である。後に知ったことではあるが、この当時の床屋は、大晦日など12時過ぎまで営業していたという。
大晦日風呂に入るとき、親から新しいパンツとシャツが渡され、枕元には元旦に着るべき洋服が置かれていた。心身ともに新しい歳を迎えるのである。
お雑煮を食べ、お年玉を貰う。そのお年玉を握りしめて、おもちゃ屋に飛んでいく。帰りに三嶋大社の境内の出店で買い食いをするのが、年に1度の子どもなりの儀式ともいえる。決して多くないお年玉をどう使うかは、真剣に考えていたようであるが、少しでも後々のために残しておこうという考えは全くなかった。明日の買い食いだけは、残したようである。
大人たちは、お屠蘇といって、朝から延々と続く祝宴であった。ある旧家のお婆さんが、「わたしは、お正月がいやでね」と語っていたのを思い出す。正月中、親戚や年賀の人たちの酒盛りのお世話ばかりであったという。
テレビのない時代であったから、大人たちは百人一首に興じていた。ひらがなは読めても1枚も獲れない。ときに我々のために、「坊主めくり」をしてくれた。坊主が出てくるたびに、すべての絵札が没収され、次にお姫さまが出た人がその絵札を貰えた。蝉丸が坊主であるか、問題になったことが、印象に残っている。
小学校高学年の頃であろうか。お寺であるので、坊主を悪者にする遊びに抵抗を感じ、少し違和感を持った。そこで「坊主めくり」ではなく、「お姫さまめくり」を提案した。坊主がでたら絵札が貰えるのである。実際やってみると、あまり面白いものではなかった。やはり悪役は坊主が似合っていた。
こんな昔のお正月に感慨を馳せながら、古稀を迎える。今年もお寺、メルマガをよろしくお願いいたします。
蛇足となりますが、お屠蘇と称する宴会だけは大切にされております。
【蝉丸】せみまる
平安初期の歌人。伝説的人物で、宇多天皇の第八皇子敦実親王に仕えた雑色(ぞうしき)とも、醍醐天皇の第四皇子ともいう。盲目で琵琶に長じ、逢坂(おうさか)の関に庵を結び隠遁生活をしたと伝えられる。生没年不詳。(出典Japan Knowledge)
天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久
|