この3月で大正大学非常勤講師を退任する。大学入学から今日まで、学生時代、職員、講師として実に52年間通ったことになる。健康に恵まれ家族の応援?を得て、完結できたことが喜ばしい。
大学では日本文学科に所属して、いろいろな内容の講義をしてきたが、「文章の書き方」や「源氏物語」講義が印象に残っている。メルマガを読まれた方に、文章の書き方を教えている人の文章なのかと思われると、いささか不安を感じないわけでもない。美しい文章や内容のある文章を書くことができれば、それはそれですばらしいことであるが、それを目的とした講義ではない。
「文は人なり」というように、文章を見ればその人の人となりが判るという。すなわち人間的な形成がなされてこそ、充実した文章が書けるということになる。しかし、人格はそう簡単に育成できるものではないので、よって内容のある文章を書くことは、当座の目標とはならない。
「読みやすい文章」「わかりやすい文章」を書くことを目指しているのである。
まず文の長さ(書きはじめから「。」までの文の長さ、文字数)が、適当であるかを検討するのである。学生に文章を書かせると、ひとつの文が、長い文では200〜300字に及ぶ。「文」は、「主語」と「述語」に形容や修飾の語が加わって成り立っているのであるから、長文になってしまうと、その関係が不明瞭となり、わかりにくい文章となってしまうのである。
逆に短いと、今度は「文」と「文」との繋がりがわからなくなってしまうのである。
一般的には文章の性質(案内文、説明文、感想文、論文等)によって変わるものであるが、平均30〜50字で一文が書かれているのが良いという。無論文章は長い文と短い文で形成されているのであるが、大方の書き手は、文の長さを気にすることなく書いているところに問題がある。書き手に「長い文になってしまうが、必要である」「短い文が続くが、ここでは必要である」との自覚のもとで、文の長短を決めての執筆をもとめるのでる。無自覚な文の長短は、わかりにくい読みにくい文章を作成してしまうこととなる。
同様に読点「、」も何となく付けるのではなく、はっきりとした「必要なところに付す」という自覚のもと付けることを教える。
また「漢字表現」と「ひらがな表現」、すなわち漢字で書くか、ひらがなで書くかという事である。たとえば「御挨拶申し上げます」→「ご挨拶を申しあげます」、「行うことが出来る」→「おこなうことができる」と、誤りではないが、現在では必要な漢字以外はなるべくひらがな表記がよいのである。
とくに注意してほしいのが、言葉には「語感」があることである。ある人の挨拶に「今、話題のコロナウイルス」、「被災地で自衛隊が暖かい食べ物を振る舞った」との発言があった。
「話題」を辞書で調べると、「話の題目。談話・文章などの中心的な材料。話の種。」とあり、用例としては「―が尽きない」「―にのぼる」(デジテル大辞泉)と、話題となることは比較的明るい、楽しい、珍しい内容であり、不快や危険なことには用いられていない。辞書的解釈では、その言葉の語感はわからないが、用例を見ると判るのである。
また「振る舞う」には、ご馳走をするという意味があるので、被災地の言葉としては不適格であろう。
このように書くと、そのような些末(さまつ)的ことを講義しているのかと、お叱りを受けるかも知れない。確かに「おもしろい授業」でもなければ、「楽しい授業」でもない。しかし一般社会では、話をするにも文章を書くにも、十分に吟味した言葉の選択や必要性の自覚を持っていただく講義と考えた次第である。
「あまりおもしろくない授業だった」と受け取る学生と、「自分には気のつかないことが、たくさんあるんだ」と考える学生の開きは大きい。
天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久
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