三島市立楽壽園は、明治24年、小松宮彰仁(あきひと)親王の別邸として建てられ、昭和26年(1951)市制施行10周年記念事として、市民公園「楽壽園(らくじゅえん)」として、昭和27年7月15日に開園された。楽壽園HPより、概要を引用させていただく。
楽寿園はJR三島駅のすぐ南に位置し、緑豊かな森に囲まれ
た広さ約75,474平方メートルの自然豊かな公園です。
ここは明治維新で活躍された小松宮彰仁親王が明治23年に
別邸として造営されたもので、昭和27年より市立公園として
三島市が管理運営しています。昭和29年には、世界文化遺産
である富士山の雪解け水が湧き出す園内の景観と、自然林か
らなる庭園が、国の天然記念物および名勝に指定されました。
園内にはどうぶつ広場やのりもの広場をはじめ、郷土資料
館、県・市指定の文化財「楽寿館」もあり、四季を通じて子
供から大人まで楽しめる公園として親しまれております。
開園とともに小動物園化、昭和30年代には遊園地化され、次々と遊具が建設された。小学生であった私には、特に「お猿の電車」と「ロケット飛行機」が、印象に残っている。「お猿の電車」は、運転席におサルさんが、助手席に人間が乗って、30メートルほどのコースを2周したかと思う。乗り物などに乗る機会ない時代であったので、それはそれで楽しいものであった。「ロケット飛行機」は、地上数メートルくらいの高さであろうが、非日常の目線の高さが新鮮であった。
昭和33年7月、メスのキリンがやってきて、「いずみ」と名付けられた。HPページによると、写生大会では、いつも人気ナンバーワンであったそうです。
わたしも参加いたし、キリンの絵を描いたように思うが、はっきりしない。それよりも1等賞になった女の子の絵が、わたしのものの考え方に多大な影響を与えた。その絵は、いずみちゃんの隣にお父さんキリンとお母さんキリンが、描かれていたのである。
先生の説明によると、「ひとりで三島に来たいずみちゃんに、家族を描いてあげた女の子の気持ちが良く現れている」というのである。成人してから思ったことであるが、絵を描くことや、詩や小説を書くことは、実際の現実の事柄を表現するものではなく、作者の思いや、考えを表現することであると学ばせていただいた。
新聞やテレビの報道は、事実をいかに正確に伝えるかが肝心であり、記者や新聞社テレビ局、さらにはコメンテーターの考えが、先行してはならないことも附しておこう。
この夏、この楽壽園が大変なのである。新聞の報道によると、59年ぶりに園内の小浜池の水位が過去最高となったという。子供のころは、「水の都」の象徴として池から溢れていた光景が懐かしい。砂漠化した池の痛々しいさまが日常化していただけに、なんともうれしいことである。
早速、見に行った次第である。
記録更新してから1ヶ月が過ぎたが、水位を保っている。地下に新しい水の流れができ、この湧水が枯渇することなく、真の「水の都」となることを祈っている。
【小松宮彰仁親王】
親王は弘化3年(1846)、伏見宮邦家親王の王子として生まれました。幼い頃より仏門に入り、仁和寺の第三十世門跡となりましたが、慶応3年(1867)復飾して仁和寺宮嘉彰親王となり、議定職を仰せつけられます。明治元年(1868)に軍事総裁となり、戊辰戦争では会津征討総督に任ぜられるなど活躍しました。宮号を東伏見宮と改めたのち英国へ留学し、帰国後は陸軍を志望して軍人皇族第一号となりました。西南戦争では新撰旅団司令長として現地へ派遣されるなど活躍し、明治14年には維新以来の功績により家格が世襲親王家となり、翌年宮号を小松宮と改めました。軍人であった小松宮は、富士での演習の際三島へ立ち寄り、小浜の地を気に入って別邸造営を決めたと言われています。明治23年の秋には地ならし中だった小浜池周辺を検分に訪れています。(『静岡大務新聞』明治23年10月21日記事)。三島市市立公園 楽壽園HPより
https://www.city.mishima.shizuoka.jp/media/05095050_pdf_201896_radB10A9.pdf)
天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久
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