コロナ禍のなか、多くの人が亡くなり、多くの人が苦しみ、行事やイベントの楽しみを取り止め、旅行や会食の自粛と、巣ごもり状態に陥りました。
一方、株価はこの1年間に1万円もの値上がりで、3万円の大台を超える事態となった。コロナ禍で職を失う人、大幅な収入減と、経済の変動に翻弄される毎日のようにも思う。
決してコロナ感染が終息を迎えたわけではないが、ワクチンの接種と経済とのバランスであろうか、東京を中心とする緊急事態宣言の解除がおこなわれた。しかし、現実は解除をあざ笑うかのように感染者が増加いたし、第4波の懸念が叫ばれている。
昨今のニュースで感染者数の増加を伝える表題を見ると、次のごとくである。
「兵庫で新たに211人感染 200人台は2カ月ぶり」朝日新聞2021.3.31
「東京 新たに414人感染 4日ぶり400人上回る 新型コロナ」2021.3.31
「コロナ感染、2カ月ぶり2500人超 宮城・青森で最多」2021.3.31
「東京、新たに414人感染 3月合計、4カ月ぶり4桁」2021.3.31
「大阪で432人が新たに感染 2カ月ぶりに400人超え」朝日新聞2021.3.30
「北海道で56人感染確認 2日ぶりに50人超」朝日新聞2021.3.30
「国内で新たに1345人の感染確認…月曜日の1000人超えは7週間ぶり」読売新聞2021.3.29
「国内で1345人が感染 月曜に1千人超は7週ぶり」朝日新聞2021.3.29
まさしくコロナ感染の下げ止まりではなく、再来を伝えている。少し気になるのが、その伝え方である。「〜ぶり」とあるが、どうも違和感を禁じ得ない。そこで辞書を調べると、
1 名詞、動詞の連用形に付いて、その物事の状態やようす・
ありかたなどの意を表す。語調を強めるとき、「っぷり」の
形になることがある。「枝―」「仕事―」「話し―」「男っ
ぷり」「飲みっぷり」
2 時間を表す語に付いて、再び同じ状態が現れるまでに、そ
れだけの時間が経過した意を表す。「十年―に日本の土を
踏む」「しばらく―に映画を見た」
3 数量を表す語に付いて、それに相当する分量があることを
表す。「二人―の米」「小―の茶碗」
4 名詞または名詞に準じる語に付いて、曲節・調子の意を表
す。「声(こわ)―」「ますらお―」
5 古代歌謡、特に雅楽寮に伝わる歌曲の曲名を表す。「天田
(あまだ)―」
デジタル大辞泉
ここでは、2の用法である。用例を見ると、経過した時間に期待感があるところから、コロナ禍で使われると、違和感が生じるのであろう。辞書的解釈では、しばらくの経過期間を意味しているので、各種報道は間違いではないが、用例からすると違和感があるのである。
この問題は、はやくにNHK放送文化研究所が的確に指摘しているので、長くなるが引用させていただく。
「〜ぶり」の使い方や数え方は?2001.07.01
【疑問】 まもなく「夏の甲子園(全国高校野球選手権大会)」が開幕し
ますが、出場校を紹介する際などに、よく「○年ぶり○回目
の出場」という言い方をします。こうした「〜ぶり」の使い
方や数え方について教えてください。
【回答】 接尾語の「〜ぶり」は、一般的に時日(じ
じつ)がたって、その前の状態が再び起こるときに使われま
す。 また、その場合の時間や日にちはすべて満の数え方をし
ます。
【解説】 「〜ぶり」(○年〜、○日〜)は、「久しぶり」という言葉も
あるように、ある程度の時間・日にちがたったあと、ようやく
その前の状態が再び起こるときに使われるのが普通です。
【用例】 (例1)「5年ぶりの再開」「5日ぶりの晴天」「1か月ぶりの
雨」また、期待感がある場合や実現するまでに相当の努力が
払われ、しかもそのことが起こるまでに心理的に長い時間の
経過がある場合には、必ずしもその状態が再 現されなくて
も使う場合があります。
(例2)「着工以来、15年ぶりに開通」
<注意>「〜ぶり」には、語感の中に「待ち望んでいることへ
の期待感」を含んでいるので、「○年ぶりの大病」などという
言い方は普通しません。
(例3)平成10年に初優勝したあと、ことし(平成13年)再
び優勝した場合、「3年ぶり2回目の優勝」。満の数え方で、
(平成)13−10で3年と計算します。
(例2)ある事件が10日に発生して20日に解決した場合は、
「事件は10日ぶりに解決」。(20−10=10日ぶり)
(例3)鉄道事故が17日に起きて20日に列車の運転が再開さ
れたときは、「3日ぶりに運転再開(復旧)」。(20−17=
3日ぶり)
すなわち「ぶり」という言葉は、「期待がある」「待ち遠しい」「早く来てほしい」期間を示す言葉といえよう。決して「望まないこと」「悪いこと」の期間には使われてこなかったのである。
報道機関の使い方は、辞書的には間違いとはいえないが、語感的には受け入れられないものである。特に言葉をもっとも大切にしなければならない人たちには、考えてほしいのである。記者だけでなく、校閲する人、ディレクターの責任は重い。
では何故にこのようなことが、多く見受けられるのであろうか、それは最近の人たちは、いわゆる名文を読んでいないからであろう。一字一句を厳選して書かれた小説を読むことによって、言葉の使い方を勉強してこなかったからであろう。好き嫌いは別として、志賀直哉たちの小説を読むことなく、文章を書く人になってしまったのであろう。センセーショナルな表現を多用するだけでは、残念な結果を招くだけであろう。
写真はそのような杞憂とは無縁で、無心に花を付けている願成寺の桜を。
天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久
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