来る11月13日「小倉百人一首競技かるた」の、西郷直樹永世名人と川瀬将義名人の対戦が、願成寺でおこなわれることとなった。
なぜ三島で、なぜ願成寺でおこなわれるのか、ぜひともこの機会に紹介させていただきたく思います。
2022年第68期名人は、長泉町在住の川瀬将義さん(27)で、「三島せせらぎ会」で永世名人の西郷直樹さん(43)から指導を受けた。お二人の「楽しい、やりたい、強くなりたいと思う環境が広がってほしい」との思いから、夢の対戦が決まったという。
では、「なぜ願成寺で」ということになる。大会などが神社でおこなわれることがあるので、会場が三嶋大社ならば理解できると思うのであるが。じつは、今流でいうと、わが「願成寺」は「和歌の聖地」である。おおかたの人は知らないであろうが、我が国の和歌の伝承を考えるうえで、最近注目すべき地であるのである。
丁寧に説明させていただこう。万葉集から始まり、今日の短歌に至るまでの歴史のなかで、「古今和歌集」は、初めて勅命により国家の事業として和歌集を編纂された、勅撰和歌集としての存在は特質すべきであろう。
全20巻で定家本によれば歌数は総勢1100余首を納め、何時の時代も和歌の手本としての存在は今日においても揺るぎないものと思われる。平安朝貴族たちには必須アイテムであり、その大方を諳(そら)んじていたであろう。現在でも古今和歌集を研究する方も、同じですべての歌を承知している。和歌を創ることは、古今和歌集の学習から始まるといっても過言ではなく、よって古くからみな古今和歌集の奥義を求めたのである。
時、室町中期(文明3年1471年)、宗祇法師は下向して三島に赴いた。武将東常縁(とうのつねより)に会い、古今和歌集の奥義を受けるためてあった。常縁は武将ではあったが、二条派の尭孝の門弟になり、当時一流の歌人であった。常縁が東国の平定に出陣していた三島に赴いて、「古今伝授」をうけたのである。また伝授の折、常縁の子息竹市丸が風邪を引くと、宗祇は病気平癒を願い、三日で千句をつくり三嶋大社に奉納しており、現存している。
そしてその伝授の場所が、「願成寺」ということになるのです。傍証ばかりであるが、反論もない。願成寺はともかく、三島で伝授されたことは間違いないことである。
古今伝授の後半がおこなわれたといわれる郡上八幡では、「古今伝授の里フィールドミュージアム」が作られ、町をあげて宗祇法師の顕彰と和歌の発展に熱心である。
三島でも、三島ブランドとして「宗祇法師の会」の活躍も見られるが、まだまだ知られることが少ないようである。この度の「小倉百人一首競技かるた、永世名人と名人の対戦、願成寺で」を好機として、「和歌のまち三島」の高揚に寄与したい。
暴走であるが、わたしも名人に挑戦してみたい。無論、足下にも及ばないが、奇策をこうじて。奇策であるので今は明かせない。
【「競技かるた」のルール】
対戦は一対一です。それぞれが取り札100枚の中から無作為に25枚ずつ選び、自分の前(「自陣」と呼ぶ)に並べます。読手が読む短歌の上の句を聞き、相手より先に札を取ります。「相手陣」の札を取った場合は、自陣の任意の札を相手陣に送ります。そうして自陣の札がなくなった選手が勝ちとなります。
しかし、相手に勝つためには自分に有利な札の配置、試合の経過と共に変化する「決まり字」の暗記、読手の声に瞬時に反応する研ぎ澄まされた神経と判断力、札を取る俊敏でしなやかな体の動きなど様々な能力が求められます。知力に加えて日々の鍛錬と経験によって培われたメンタル&フィジカル両面の総合力で勝敗を決する、それが「競技かるた」です。(全日本かるた協会HP)
【古今伝授】
「古今伝授」は古今集の解釈を師から弟子へ秘伝という形で後世に伝えたものです。古今集の成立後、ほどなく始まったと推定されますが、形式化されたのが文明3年(1471)三島で行われた、東常縁(とうのつねより)から連歌師宗祇(そうぎ)への伝授といわれています。古今伝授を受けるには、弟子は師に対して誓状(ちかいじょう)を提出し、一切他言しない事を約束させられます。その上で古今集について、当時は記されていなかった清濁や句読点などを付けた読み方、続いて語義や語釈についての講釈を受け、師は弟子にそのききがき聞書(いわゆる講義ノート)を提出させ、必要な事項を補筆訂正し、伝授を証明する奥書を記しました。(三島市HPより)
天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久
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