うららかな春の光が差し込むまか、東京港区の大本山増上寺では、毎年4月上旬に法然上人のご遺徳を偲ぶ御忌大会(ぎょきだいえ)がお勤めされています。その一環として、境内の奥にある圓光大師堂(えんこうだいしどう)では、数日にわたりただひたすらに木魚を撞きながら「南無阿弥陀仏」とおとなえする常念仏が営まれています。
その常念仏に毎年参加されている男性の音楽家の方がいます。今年も3日間通われましたが、その熱心な念仏信仰の背景にはこのような出来事があったのです。
この方は、夏の有名なロックフェスに出演、CMや映画の楽曲提供など、ご活躍される傍ら、御朱印集めなどを通じて仏教に元々深い関心をお持ちになられているお方であります。
順調な人生を歩まれているかのように思われましたが、2018年の3月に食道がんステージ2〜3と診断され、50代を目の前にして闘病生活を送ることとなりました。私はこの方と元々ご縁がありましたので、当時ご入院されている病院へお見舞いに伺いました。病院のロビーでお会いすると、この方が私にこうおっしゃいました。「治療が始まる前に、増上寺さまへお参りしてお念仏をおとなえしたい。」
ちょうど、大本山増上寺の御忌大会が近づいていました。「では、一緒に参りましょう」と後日日程を合わせて増上寺へお参りをしました。4月上旬、増上寺三解脱門で待ち合わせをして、境内奥の圓光大師堂で行われている常念仏へ参加をしました。この音楽家の方は、ただひたすらに2時間木魚を撞きながら、南無阿弥陀仏とおとなえされていました。お念仏を終えお堂の外へ出ますと、この方がこうこぼされました。「なんで、俺が」私は、こう尋ねました。「もしかして、病気になって、神も仏もあるものか。と思いませんでしたか?」そう申し上げますと、「いや、私は小さい頃からお寺が大好きで、いつもそこには仏さまがいらっしゃいました。そんな仏さまを謗るようなことはできません。」そういう言葉を交わして、その日はお別れしました。
それから数日経って、再び病院へお見舞いに伺うと、私が以前に差し上げたお経本を開かれ、こうおっしゃいました。「すみません。ここで四奉請というお経をとなえていただけませんか?」そのような申し出がありました。そのお経の内容は、「あらゆる仏さま、お釈迦さま、阿弥陀さま、そして観音菩薩さま、勢至菩薩さまに至るまで、この私のいるこの場所へおいでください。」というものであります。
「本物のお坊さんにお経をとなえていただければ、病室で独りであっても阿弥陀さまや菩薩さまがいてくれるような気がして」という願いでありました。「わかりました。一緒におとなえしましょう」とお伝えして、四奉請と十遍のお念仏を小さな声で共におとなえしました。
病室で独り過ごさなければならない。けれどお念仏を申せば、肉眼では見えなくても阿弥陀さまが側で寄り添ってくださる。それを心の支えとされたのであります。
この方の治療は幸いにも良い方へ向かっていきました。秋には、大勢のお客さまの前で、復活の歌を披露され、その後五重相伝会、授戒会もお受けになられ、2023年の常念仏にもご参加いただいたのであります。
もちろん、私たちはこの世にいつまでも留まることはできません。だからこそ、この世も後の世も阿弥陀さまのお力に身を任せようという一途な心が、私たちの生きる支えとなるのです。
私たちもお念仏を常におとなえして阿弥陀さまと一緒の日々を過ごしたいものであります。
【圓光大師】えんこうだいし
法然没後四八六年の元禄一〇年(一六九七)正月一八日、東山天皇より勅諡された大師号。前年に知恩院白誉秀道が京都四箇本山で話し合い、増上寺貞誉了也を通じて徳川綱吉とその母桂昌院に大師号贈号を依頼した結果、勅諡が決まった。当初は大智慧光・智慧光・慧光の三案あったが、最終的には『四十八巻伝』に出てくる、法然が九条兼実邸で頭に円光を頂き、蓮台に乗っていた姿にちなみ、円光大師となった。(浄土宗辞典)
海福寺 瀧 沢 行 彦
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