紫陽花が色とりどりに花を咲かせる季節となりました。紫陽花は、土壌の酸度によって青色になったり、ピンク色になったりするので「移り気」や「浮気」が花言葉になっています。
俳人正岡子規が
紫陽花や きのふの誠 けふの嘘
と詠っています。色が移りゆく紫陽花のように、人の心も移ろいやすいと読みました。子規は俳句以外に「飛球」「四球」などの野球用語を考案するなど、日本の言葉に大きな影響を及ぼした方でもあります。
子規は1867年愛媛県で生まれで、幼い頃から体が弱かったそうです。病弱ではありましたが、漢詩や小説を好み、友人と雑誌を製作するほど文才に長けていました。
愛媛県の松山はその頃俳句が大変盛んで、高浜虚子などの有名な俳人と親交を深めると、16歳の時には上京した先で夏目漱石と出会います。しかし、この頃から結核に襲われ吐血が多かったといいます。「正岡子規」という名はペンネームでその由来は、吐血の姿にありました。「子規」は「ホトトギス」という意味で、吐血を繰り返す我が身が、まるでくちばしの赤いホトトギスようだという理由から子規と名乗ったといいます。
子規は1897年に「ホトトギス」という冊子を創刊しますが、1902年、35歳の若さで亡くなります。その子規が晩年に手がけた随筆集に「病床六尺」があります。不治の病に倒れた子規が畳一畳に横になり、亡くなる2日前まで書き続けたものです。その冒頭に「病床六尺、これが世界である。しかもこの六尺の病床が余りにも広過ぎるのである」とあります。苦痛で悶え号泣しながら過ごすなか、新聞を読むことさえ苦しくて、布団の外へまで足を延ばして体をくつろぐこともできないと、生々しく自分の様子を文字に残しております。死を悟った子規は、このような句を残します。
糸瓜咲いて 痰のつまりし ほとけかな
子規が晩年を過ごした場所は、東京の根岸という場所で、現在「子規庵」という小さな民家が残っています。そこには子規が病床に伏せていたであろう部屋から小さな庭が見えます。その庭には糸瓜が垂れ下がっていました。糸瓜は結核に効く薬として使われていたそうで、子規も糸瓜を育て食べていたそうです。しかし、もう体が動かなくなって「漸く糸瓜が咲いたけれども、目の前の糸瓜を取りにいくことができない。痰が詰まって死していくのだな」と詠ったのです。
そのように、子規の随筆集を読むと「いつか我が身に訪れる終焉なのだな」としみじみ感じるのであります。
浄土宗をお開きになられた法然上人は、心が移ろいやすい私たちであっても、南無阿弥陀仏と声に申し続ければ、命終えても阿弥陀様の迷い苦しみのない極楽浄土へ往生させていただけるとお示しくださっています。いつか迎えなければならない自分自身の旅立ちではありますが、その命の行き先に希望があることを法然上人は教えてくださるのです。
海福寺 瀧 沢 行 彦
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