先月7月23日、午前3時、私の師僧・父親である海福寺第二十五世・瀧沢廣運(たきざわ こううん)上人が行年75歳で息を引き取り、阿弥陀如来さまの極楽浄土へ往生しました。
午前2時、父の入院先である病院より「廣運さまの心臓の動きが弱まっていますので、すぐに病院へ来てください」という一報がありました。すぐに母と病院へ駆けつけましたが、すでに波形は0になっていました。でも体は温かくて、父の目尻には涙が流れていました。「お父さん、お疲れさま」と言って、手首に父が使い慣れた二連のお数珠つけようとしたら、父の腕が「パタッと」ベットへ打ち付けられ、本当に死んでしまったのだと涙が溢れました。
父は昨年病により足を切断しました。それでも家族で自宅での介護を希望し、今年の六月末まで自宅で過ごしていました。
父は長野出身で、柔道の力を認められ東京巣鴨にある大正大学へ特待で入学。警察官を目指していましたが、浄土宗の僧侶になる縁に出会います。当時海福寺は先代の住職が倒れ、「誰がこのお寺を守っていくのか・・・」ということになり、白羽の矢が立ったのが、当時20代であった私の母でした。母は、勤務先を一年で退職し、出家することになりました。しかし当時は女性が衣を着てお経をとなえるということに難色を示す人もあり、厳しい言葉が飛び交ったそうです。
それを見かねた静岡県富士市の大運寺さまが、当時柔道家で大正大学の職員であった上平廣(かみひら ひろし)を浄土宗の僧侶にしようという動きが起きました。そして、父は一般の出でありましたが、浄土宗僧侶になる事を決意し、海福寺に入り、母とご縁を結んで瀧沢廣運という名前となりました。
それから45年、海福寺と瀧沢家を守ってくださいました。
父が最後に私にはっきり話しかけてくれた言葉は、「おい、ゆき、なんか困っている事ないか」でした。手足も動かない状態で私のことを心配してくれました。
父としては、私や弟の友人を大切にしてくれました。また、私たちが励みたい事を応援してくれました。お酒が好きな父は、人が好きな人でした。柔道家としての上平廣は、器が大きく、穏やかで、最後まで堪え忍び、病と戦いました。僧侶である廣運上人は、弟子の私にお経を教えてくれました。そして、南無阿弥陀佛ととなえれば、命終えても必ず極楽浄土に往生できる。その世界に到達できれば、またみんなと会えると信じて45年間、お念仏をおとなえし続けていきました。
浄土宗を開かれた法然上人のお言葉に、「ある時には、世間が無常であることを思って、この人生がさほど長くないことをわきまえなさい。またある時には、阿弥陀仏の本願を思って必ず極楽へお迎えくださいと口に出しなさい。」というお諭しがあります。
しかし、私はこの法然上人の言葉に反して、お念仏をおとなえしていました。父である住職が病で苦しんでいる時、総本山知恩院さまや増上寺さまの阿弥陀さまに「まだ父のお迎えに来ないでください」と念じ、お念仏をおとなえしていました。家族を失いたくなかったのです。
ただ、7月23日の午前2時に「心臓の動きが弱まっている」という一報をいただいた瞬間、私の心境は、ガラッと変わりました。本堂に向かい、阿弥陀さまの前で「住職が無事に極楽浄土へ生まれ変われるように、阿弥陀さま、お迎えに来てください。」と十編「南無阿弥陀仏」とおとなえしました。なぜでしょうか。それは、阿弥陀さまの極楽浄土は、唯一私たちがまた会うことができる場所であるからです。
お父さん、ありがとう。疲れさまでした。師僧、今までお経と生き方を教えてくださりありがとうございました。阿弥陀さまの世界で菩薩となって、これからも私たちを見守ってください。これからもよろしくお願いいたします。
生前住職とご縁がありました皆さまにおかれましては、本当にお世話になりました。今月は、師僧の旅立ちについてお話させていただきました。
海福寺 瀧 沢 行 彦
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