皆さんは、墓地やお仏壇などで良いお香を用いているでしょうか。私たちは当然のようにお香を仏事で用いますが、その由来はどのようなものなのでしょうか?
まず、香木(沈香、白檀)などが香として用いられたのは、仏教伝来に始まるといわれます。海外よりもたらされた貴重な香木は、お寺の荘厳を整える大変な宝物でありました。沈香の中でも「伽羅」は最上級で、現在も別格に扱われています。
日本の伝統的な文化のひとつ「香道」は、平安時代より継承されていています。「香道」では、香りを「かぐ」とは言わずに、香りを「きく」と表現します。その由来には諸説ありますが、「利き酒」同様、香りを「利き分ける」という意味があったり、香りから立ち上る煙に想いを託し、天に「聞き届けてもらう」という意味があるとも言われています。
私たちは、仏前や墓前に花と共にお線香を捧げるのが習慣となっていますが、初期の仏教に遡ると、お釈迦さま(ブッダ)は香りがするものから離れることを示唆しています。それはどういうことかと言うと、仏教の戒が関係しています。出家者が持つ戒について示される『梵網経』に、出家者が日常生活の上で不要なものとして、「装飾のもととなる花飾りや香料、塗香」などを上げています。これは、出家者が所持するものは「三衣一鉢」(3つの衣と、食事に用いる容器1つ)以外は不要という考えがもとであって、執着を生み出すものを所有しないことが、苦しみから離れていく道であると説くのであります。
あるいは、『法句経』の注釈書『出曜経』には、「天上の諸香は結本を増熾し、塵労を長益すれども、賢聖の戒香は諸の結使を断じ・・・」とあり、世間一般の香りは、迷いを起こさせるけど、仏法の戒の香りは生死輪廻を打ち止めし、煩悩を断つ効力があると示されています。
つまり、お釈迦さまは王子時代、身を清める沐浴の際に常に香を用いていましたが、出家後は、心身が清浄になる「戒こそが香である」から「香そのものは不要」という立場をとったのであります。さて、そうなると仏教において香は不要となってしまいますが、なぜ今のように仏教において香は必需品となったのでしょうか?
一つには、出家者に対し一般在家の方が、お布施として香を供養したことから、寺院で「香炉、香水」として用いられるようになったと言われています。結局『無量寿経』に、阿弥陀さまが構えられた極楽浄土は、すぐれた薫香が遍満していると説かれていることからも、浄土を表している本堂で良いお香を焚くことは当然必要不可欠となるのです。
また、曹洞宗の祖師・道元禅師『正法眼蔵』に「香油を身に塗するに 内外倶浄なるべし」とあり、心身の汚れを取り除くうえで、塗香がその第一と示されているように、香自体に心身を清める効力があると言います。
浄土宗の法然上人は「高価な香料を集めて持つことは、罪でしょうか?」という質問に対して、「香料を集め持っているのは罪になります」とお答えしました。(『一百四十五箇条問答』五一)この言葉の真意は「ただ自分の財をたもつ目的の為に香を用いることはいけません。ただ所有することは執着煩悩の苦しみの種でしかありませんよ」ということでありましょう。「香を用いる目的は、仏さまのみ教えに多くの人が心を向けていくためですよ。本当の意味で苦しみから逃れていくということは、お念仏を申して輪廻を離れて極楽浄土へ往生することなのですよ」と法然上人はお諭しくださっているのではないでしょうか。
香聞くは 仏法聞きし 縁となる
香の香りが身につくがごとく、戒やお念仏が身につくように、良いお香を供養したいものであります。
【参考文献】
「鳩居堂の日本のしきたり 豆知識」 監修 鳩居堂
「修行僧の持ち物の歴史」 著 西村 実則
海福寺 瀧 沢 行 彦
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