NHKの大河ドラマ「光るきみへ」が、放映されている。紫式部8歳の「まひろ」という名のもとに登場して、藤原道長12歳の「三郎」との出会いから始まる。そして、三郎との再会を楽しみに駆け出すと、ちょうどそこを馬に乗って通過する三郎の兄道兼を驚かせ落馬させてしまうのである。怒った道兼は、謝る「まひろ」の母親を無礼打(ぶれいうち)にする。じつに衝撃的な事件で始まるのである。
ところで平安時代の女性の名前は、ほとんどわからないのである。紫式部は、宮中での女房名は藤式部(とうのしきぶ)で、後に紫式部と呼ばれたとされるが、いずれも通称である。清少納言や和泉式部なども通称にすきない。
紫式部の実名や正確な生没年もわかっておらず、大河ドラマでの紫式部の呼称が、単に「まひろ」であったに過ぎない。とにかく分からないことだらけである。ただ、母親が早逝して、漢学者である父親藤原為時に育てられ、文学的な素養を身につけたと言われており、母親を早逝させなければならなかった。
ドラマというものは残酷であって、不要な人物はつぎつぎと死んでいくのである。光源氏とて、義母藤壺との密通を描くために、三歳の時に病弱な母親桐壺更衣は去っていく。同じように「まひろ」の母親も死んでもらわなければならず、無礼打ちという形で消えていくのである。無論こんなことは史実ではなく、作者の虚構であることはいうまでもない。ドラマでは、返り血を浴びた道兼の形相は、あまりにもセンセーショナルであった。
紫式部の詳細が伝えられていないだけに、作者のイマジネーションが駆り立てられるのかもしれない。
「光る君へ」第5話で、「まひろ」と「三郎」は、互いの素性を明かすことになる。ちょうどそのとき花山天皇が即位し大嘗祭(だいじょうさい)が営まれ、五節の舞が催される。なんと、「まひろ」が舞姫に抜擢されるのである。無論、紫式部が舞姫となったという史実はない。「源氏物語」に五節舞が描かれていることからの採用であった。
これは、母親を惨殺した道兼が、「三郎」の兄であることを、「まひろ」に知らしめるための演出である。そして「まひろ」は、「三郎」との恋心と、道兼への憎しみとに苦しむことになるのである。
まだ「光る君へ」は8回の放映であるが、このように「まひろ」の生涯を展開していくなかで、しばしば「源氏物語」の場面が利用されているといえよう。
初回から残虐な道兼が物語の底辺に流れているが、史実でないだけに多少の違和感を感ずる次第である。ただ、道兼もまもなく亡くなっていくので、新たな展開を生じていくのであろうか。
【無礼打(ぶれいうち) 】=切捨御免(きりすてごめん)
近世において武士に認められていた私的刑罰権。無礼打(ぶれいうち)ともいう。本来は強力な武士各人が有していた支配者的懲戒権に基づくと考えられる。江戸幕府の成立とともに、幕府はこれを身分的秩序維持するための名誉の防衛権に制限した。
【五節の舞ごせちのまい】
五節の豊明節会(とよのあかりのせちえ)に行なわれる少女の舞。五節の舞をまう舞姫は、公卿・国司の子女の中から、新嘗祭では四人、大嘗祭では五人の未婚の少女を召した。
【大嘗祭だいじょうさい】
天皇が即位後初めて行う新嘗(にいなめ)祭。その年の新穀を天皇が天照大神(あまてらすおおみかみ)および天神地祇に供え、自らも食する、一代一度の大祭。祭場を東西2か所に設け、東を悠紀(ゆき)、西を主基(すき)と称し、神に奉る新穀をあらかじめ卜定(ぼくじょう)しておいた国々の斎田から召した。
【藤原道兼】
長徳元年(995年)、関白道隆が重い病に伏した。道隆は後継の関白に嫡男の内大臣伊周を望むが許されず、4月10日に死去した。4月27日に道兼は関白宣下を受ける。ところが、ほどなく道兼は病になり、5月8日に没した。享年35。世に「七日関白」(在任は7日ではない、一説には5月2日に奏慶(天皇に御礼を述べるために関白として初参内)してから7日目であったからだともいう。なお、道兼は関白在任中に1度だけ陣定を開催している)と称された。死後、正一位太政大臣を追贈された。(ウィキペディア)
天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久
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