昨年の大河ドラマ「どうする家康」は皆さまご覧になられたでしょうか?徳川家康公(1543〜1616)というと、戦国武将としても有名な方でありますが、熱心なお念仏の実践者でもありました。家康公はどのような思いで臨終を迎えたのだろうか。その思いを少しでも感じてみたいと思い、昨年の年末に久能山東照宮の家康公の墓前に手を合わせに向かいました。
戦国武将が戦に向かう際に掲げる旗印は様々ですが、例えば、武田信玄公の旗印は「風林火山」でありました。「疾(はや)きこと風の如く 徐(しず)かなること林の如し 侵掠(しんりゃく)のこと火の如く 動かざること山の如し。」という「風林火山」のような戦い方を信玄公はしました。一方、家康公の旗印は、「厭離穢土欣求浄土(えんりえど ごんぐじょうど)」でした。この言葉の出典は恵心僧都源信の『往生要集』に由来します。
まず、私たちが住む世界を「穢土」と表現しています。私たちは、自分の願いが思うように進んでいる時は「この世はパラダイス。人間の世界は最高だ。」と思いますが、それが一転して「まさか」の苦しみが襲って来た時に「なんて苦しい世界なんだ。」と感じます。つまり私たちは、この世をパラダイスと勘違いしているだけで、本当は「思うようにはならない苦しみの世界である。」ということを「穢土」と表し教えています。さらに六道輪廻の世界の一角に住んでいるだけで、人の世は止まることができない世界、むしろ抜け出すべき世界であるということで、「穢土を厭い離れ、生死輪廻を超えたお浄土を願いましょう」と『往生要集』の一節に示されています。それを掲げて、家康公も人生を歩まれたのです。
では、なぜ家康公がこの偈文を旗印にされるほど大切にされたのでしょうか?
かの桶狭間の戦いで今川義元の軍勢は織田信長の5倍であったといいます。しかし結果は、今川勢わずか戦力5分の1の織田勢に惨敗してしまいます。家康公(当時は元康)は、領国に帰って三河松平家の菩提寺である大樹寺に逃げ込みます。この三河の大樹寺は浄土宗のお寺で、松平家八代のお墓が並んでいます。「もはやこれまで」と自分のご先祖様のお墓の前で「腹」を切ろうとしました。その状況をご覧になった当日の大樹寺ご住職、登誉(とうよ)上人が「何があったのだね。」と静かに事情を聞きます。そしてご住職は家康をこう諫めたといいます。
「貴方にはこの世でまだやらねばならぬことがある。厭離穢土、欣求浄土。汚れ切ったこの娑婆を離れ、阿弥陀さまが構えられた極楽浄土のような争いのない世界のように、今の社会を平和にするのは貴方しかいない。」と教えを説いたそうであります。
それを聞いた家康公(元康)は、自害することを止まったと伝わっています。そのような仏縁があって「厭離穢土、欣求浄土」を記した旗を家康公は必ず戦場へ持参されたとのことです。
他にも家康公がいつも手放さなかったのが、阿弥陀さまのお仏像でありました。その阿弥陀さまは現在東京の芝大本山増上寺様の安国殿に「勝ち運の仏さま」として納められております。通称「黒本尊(くろほんぞん)」とも言います。お香の煙によって黒くなったと言われています。さらに家康公は「南無阿弥陀仏」と常日頃からお写経をされていてその中には「南無阿弥家康」と自分の名前を入れた六字の名号もございます。家康公は、国を治めるとはいえ、沢山の命を奪う結果ともなっていきまいた。
一声も捨てぬ誓いの嬉しさに 思わず積もる 弥陀の数々
家康公の人生を伺い知ると、臨終の間際まで「罪重き我が身を助け給へ阿弥陀さま」とお念仏を申していたのではないかと推測するのであります。
私たちも阿弥陀さまの「見捨てない」というお誓いを依り所として、お念仏の実践をしながら、少しでも世の中が穏やかになっていくような行いを心がけていきたいものであります。
海福寺 瀧 沢 行 彦
|