めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな
『百人一首』・『新古今和歌集』に載せられた紫式部の歌です。久しぶりに会った幼馴染が、あなたかどうかもわからないうちに帰ってしまった、その慌ただしさを、雲に隠れて一瞬で見えなくなる夜中の月に譬えています。自然の美しい景色と、人の心情を巧みに表現されています。
そんな紫式部を主人公とした大河ドラマ「光る君へ」もいよいよ折り返し地点を過ぎ『源氏物語』が宮中で読まれる場面が始まりました。
あれだけの長編(54帖)を書くためには、膨大な「料紙(りょうし)」が必要ですが、なぜ当時大変貴重であった紙を紫式部が個人で入手することができたのでしょうか?大河ドラマ「光る君へ」では「誰か大きな力を持った人が、何らかの狙いをもって紫式部に与えたのではないか?それはおそらく藤原道長だったのでしょう」という仮説を受けて物語が展開しています。
当時、道長のところには、献上された大量の紙が備蓄されていたそうで『紫式部日記』によれば、式部が彰子の発案で『源氏物語』の清書本を作成したことがあり、道長から紙や筆が与えられたとあります。そのようなことから、時の最高権力者の道長が、娘・彰子の女房である紫式部に紙を与えて後押しをしたことは、かなり自然な流れではなかったのではないかとされています。
さらに、なぜ道長が紫式部に執筆を命じたのかということについて、大河では「一条天皇の関心を中宮・彰子に向けさせるためではなかったか」と推測しています。道長は、娘の彰子を一条天皇の中宮とすることができました。しかし、一条天皇は、幼い彰子と打ち解けていませんでした。道長は、彰子に面白い読み物を与えれば、文芸に造詣ある一条天皇がそれを読むために、彰子のもとへ通ってくるのではと考えたのではないか…ということです。
いずれにしても『源氏物語』を縁に、一条天皇は彰子の元へ通うようになったといいます。
藤原道長が詠んだ歌に、
この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
「この世で自分の思うようにならないものはない。満月に欠けるもののないように、すべてが満足にそろっている」と、栄華を極めた道長でしたが、実は若い頃から病気がちで、30代後半からたびたび大病を患い、40代を過ぎると、意識を失うなどの深刻な病状がみられ、死を意識するようになったといいます。
このためか、仏教への信仰が篤く、吉野金峯山に自ら登り経典を納めたり、自宅や寺院で頻繁に法会を行っていたといいます。藤原家の繁栄の為に頼りとしたのは、紫式部でしたが、財産や地位名誉ではどうにもならない生死輪廻の解決は、仏さまを頼りとした道長でありました。法然上人の御遺跡、久美浜本願寺の御詠歌に
弥陀頼む 人は雨夜の月なれや 雲はれねども 西へこそゆけ
とあります。「阿弥陀さまを頼む人は、例えて言えば雨降る夜の月のようです。雨雲とは煩悩のことです。月が雲に隠れていても西へいくように念仏の行者は、煩悩を抱いたままで西方極楽浄土へ往生するのです」という意味です。法然上人が「煩悩のままにも阿弥陀さまを深く信じ頼んで、西へ向かうのですよ」とお勧めくださっています。
どうぞ皆さまも秋のお彼岸には、亡き人のご供養とともに、わが身の命の行く末を定め、「阿弥陀さまを頼む人」になって頂けたらと存じます。
海福寺 瀧 沢 行 彦
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