先月、浄土宗開宗八百五十年を記念して、当山の檀信徒の皆さんと共に法然上人浄土宗開宗ゆかりの地、比叡山(ひえいざん)黒谷青龍寺(くろだにせいりゅうじ)(滋賀県大津市坂本本町)に参拝をさせていただきました。
比叡山は、伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)さまがお開きになった山で、仏教の母なる山と称される場所です。広大な敷地を東塔(とうとう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)と区分されていますが、自然条件が厳しいことから「論湿寒貧」と表現されています。
@ 「論」とは、 比叡山が学問を究めていく場所であるため、もう一日中議論をしてかなければならないという意味で、鎌倉仏教を開かれた各宗派の多くの祖師さま(法然上人をはじめとする、親鸞さま、一遍さま、日蓮さま、栄西さま、道元さま)が、若き頃、比叡山で学問勉強に励まれたその厳しさを「論」と表します。
A 次に「湿」は湿気の意味です。 比叡山は琵琶湖が近くにある為、木々も茂っており、非常に湿気が強い所で、修行中に肺を患う方もいるそうです。洗濯物は乾かしてもビタビタになってしまうそうです。
B そして「寒」は寒気のことです。 水道が凍るのは当たり前で、寝る前に仏さまの花瓶の水を抜いておかないと、朝、水がカチカチに凍ってしまうそうです。
C 最後に「貧」とは、 何もない貧しさと、学問や修行、やることが多すぎて休む間がないという意味もあるそうです。それだけ学問に明け暮れているという意味もありますと、天台宗の和尚さんにお聞きしたこともありました。そのように、比叡山は「論湿寒貧」の場所であると言われています。
そのような過酷な環境であることを踏まえて、法然上人の絵巻を拝見いたしますと、板と板を張り合わせたような粗末なあばら屋根が描かれていました。今のような暖房器具があるわけでもないですし、手あぶりする火鉢ひとつあるかわからないかの時代であります。雪に閉ざされた青龍寺で法然上人は一体何を纏い、生活をされていたのでしょうか。法然上人はそのような環境の中で、黒谷青龍寺の報恩蔵に納められている日本へ伝わってきた一切のお経を五遍もお読みになり、すべての人々を救いたいがために、阿弥陀さまが極楽浄土へ救う手立てとして選び取られたお念仏のみ教えに出会われた、その感動を想像しながら、檀信徒の皆さまと比叡山青龍寺を参拝させていただきました。
その青龍寺の御詠歌に
たつ杣(そま)や 南無阿弥陀仏の声引くは 西にいざなふ 秋の夜の月
があります。このお歌は延暦寺の座主、慈鎮和尚(じちんかしょう)がお読みになられました。
「杣(そま)」とは、樹木を植えて材木を取る山のことで、その材木となる木が立っている姿「たつ杣」と表現しますが、天台宗の開祖伝教大師さまがこの言葉を和歌に詠まれてから比叡山を指すことになったそうです。「声引く」とは、「声を長く引く」という意味と「西方極楽浄土へ誘引する」という意味が掛けられています。「いざなふ」は「誘導する」という意味で、秋の夜のお月さまが東から西へ向かうように、阿弥陀さまが私たちを西のお浄土へお導きくださっているということを表しています。
「たつ杣と呼ばれている比叡山よ。阿弥陀さまが、南無阿弥陀仏の声によってお浄土へお導きくださるということは、まるで西へ向かう秋の夜の月のようですね。」という内容となります。
菩提寺の行事などを通じて、秋の深まりのように私たちの命の行く末は、阿弥陀さまにお任せしようという信心を深めていきたいものであります。
海福寺 瀧 沢 行 彦
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