いそがしく 時計の動く 師走哉 (正岡子規)
時間の長さは変わらないのですが、早く時が進んでいるように感じる年の瀬となりました。そんな暮れのポストには、普段届く郵便物と共に喪中のお葉書が届いています。「〇〇さん亡くなられたんだ」と驚き、その人を偲びながら、自分自身が年を重ねていることに気づかされます。
法然上人のご法語に
人の心さまざまにして、ただ一筋に夢幻の憂き世ばかりの楽しみ栄えをもとめて、すべてのちの世をも知らぬ人も候(昭法全575頁)
とあります。「人の心はさまざまで、夢や幻のように儚いこの憂き世で楽しみや栄華だけを追い求めて後世のことなどまるで気にも留めない人もいる」という意味です。
現代の人の死生観は、「あの世はないのではないか。この世で終わりなんじゃないか。」と考える方が多いと思います。しかし、法然上人の時代の人々は「明日が来るような感覚であの世がある」と感じていたことでしょう。悪いことをしたら、大変な未来(六道の迷い苦しみの世界へ堕ちてしまう)がやってくると切実に考えていたのです。
平家を滅亡させ、鎌倉幕府を成立させた源頼朝も鶴岡八幡宮を東国の精神的中心とするなど、神仏に対する信心は深いものでありました。
例えば、治承4年(1180)平家による南都焼討で大きな被害を受けた東大寺の再建を全力で支援しました。注目すべきは、復興までのスピードでした。1180年に東大寺が焼失して5年後の1185年に大仏様は出来上がり、伽藍は1195年に復興、約15年で再建を果たします。その速さは元禄10年(1567)2回目の東大寺が焼失した後、再建されるまでにかかった年月が140年間であったというので、当時どれだけ頼朝が速く復興を終えたのかということがわかります。
ではなぜ頼朝はそこまで東大寺を早期復興させたかったのでしょうか?その理由は、頼朝が源平の合戦で多くの人を殺め、わが身の未来(後生)はどうなってしまうのだろうと不安を抱いたからではないかと考えられています。亡くなった人々の御霊を大仏様の力で鎮めていただきたいという思いから、東大寺の復興に力を注いだのです。
そのように、天下人でさえもわが身の罪深さに後世を恐れ、仏様のお力を頼ったのであります。では、私たちの命の行く末はどうなのでしょうか。
盗みせず 人殺さずを よきにして 我罪なしと 思うはかなさ (徳本上人)
頼朝のような行いをせずとも、胸に手を当てれば、立派ではないわが身が見えてくるものであります。そんな命の行く末がどうなるかわからない私たちに、法然上人はお念仏をお勧めくださいました。
法然上人は、東大寺再建の勧進職に推挙されるもご辞退され、代わりに俊乗坊乗源(しゅんじょうぼうちょうげん)を推薦しました。そして、建久2年(1191)の頃、再建半ばに乗源上人が法然上人を招き、『浄土三部経』を講じました。それを聞いた南都の三論、法相宗の僧侶たちが200人あまりも集まって来たそうです。その姿は、衣の下に腹巻鎧(よろい)を着て、もしも間違いでもあったらやり込めようと構えていました。そんな物々しい雰囲気の中、法然上人は「末代の凡夫(ぼんぶ)出離(しゅっり)の要法は、口称(くしょう)念仏(ねんぶつ)に如くはなし」(勅伝30巻)と「今の人々が輪廻から離れていく道は、声におとなえするお念仏の行以外にはありません」と阿弥陀様の願いにかなった行であるから間違いなしと東大寺にて説かれたのであります。その力強さに集まった僧侶は、随喜の涙を流したと伝わっています。
未来の人たちが迷いの世界へ向かわないように法然上人が命がけで残してくださったのが浄土宗のみ教えであります。どうぞ、お忙しい年末をお過ごしであるかと思いますが、夢のように儚いこの世で、目に見えるところばかりを追い求めていくのではなく、阿弥陀様やご先祖様のことを忘れずにお過ごしください。皆様の未来が良い日々でありますように祈念申し上げ、メルマガの記事とさせていただきます。
参考勅伝写真 「法然上人絵伝中」 続日本の絵巻3中央公論社
海福寺 瀧 沢 行 彦
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