願成寺 知恩院末 |
|
豆州加茂郡河原谷村 天主君山 開基宗清長老、
天文元年之頃、同國田方郡北条村真言宗天主君山願成就院借主之時、天文年中移此地建立、中興西蓮社窓譽上人、寛永三丙寅年十二月十九日示唆云々 |
とあり、寺伝とは異なる点が少なくないが、これ以上の資料のない現在、両者から類推すると次のようにまとめることができよう。
まず開山上人であるが、口伝に清安上人とあるのでそれに従うのが順当であろう。創建の時期については両者に矛盾がないことから、天文年間であり、創建の背景については源頼朝と元韮山町にある願成就院との関係で述べられていることを踏まえていかなければならない。頼朝公に寺号を賜ったということはともかくとして、すでに天文年間以前より庵があったようで、天文年間には浄土宗としての願成就寺が成立していたと思われる。「浄土宗寺院由緒書」によると、真言宗の寺院と思われる記載であるが、すでに元和年間(1615)には浄土宗であることが過去帳によって確認ができる。しかし、それ以前は真言宗寺院であったことは「浄土宗寺院由緒書」ばかりでなく、真言宗寺院である願成就院と山号寺号が「天守君山願成就院」と「天主君山願成就寺」と非常に類似していること。また浄土宗では拝することのない真言宗を中心として祭られる不動明王が現在も安置されていることによっても首肯できることである。
浄土宗寺院としての発展に見逃すことのできないことは、特に寛永年間以降、三嶋大社宮司である矢田部家の帰依を受けたことである。当時は神宮の家であっても、死者の供養のたに菩提寺を必要としたため、特に願成寺護持には力を注がれ、今日の隆盛の基盤が構成されたといっても過言ではないことである。明治以降は神仏分離政策によって、葬送儀礼等をおこなうことはなくなったが、現在でも矢田部家を始め社家一族の祖先を供養している。